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『定本 黒部の山賊』 伊藤正一

おすすめ度: ★  (3つ星が最高点)

 

 著者の伊藤正一は、24歳にして黒部にある三俣小屋の権利を買い取り、山小屋の経営を始める。本書は昭和20年代から30年代の山小屋での体験談をまとめたもので、山の名著として名高い。

 

 表題作である『黒部の山賊』とは、昭和20年当時、黒部周辺で登山客や地元民を狙って金銭をまき上げたり、時には殺害して物品を奪うなど、残虐な山賊がいるとの噂が広まり、警察沙汰となる。著者は山小屋を支障なく経営したいがため、友人とともに山賊が住むという小屋に捜査に出かけ、山賊と交流を結ぶことになる。実は、彼らは山賊などではなく、黒部の山中で暮らしていた4人の猟師たちであった。

 

 本書では山での興味深い話がたっぷり語られている。山中に埋められたという埋蔵金を探し回る男、神かくしにあった者、河童を目撃したという男、タヌキやカワウソに騙されたと信じる者たちなど不思議話に事欠かない。人間中心社会ではなく、人間と動物、そして幻の生き物たちが対等に存在できた最後の時代であったといえる。この時代の人間は、科学をむやみに信じるのではなく、自然に対して真摯な畏怖を持っていたといえる。

  

 近代化の象徴ともいえる黒部ダムの建設とともに、猟師たちが活躍した古き時代は終わりを告げ、山での摩訶不思議な出来事も消滅してしまう。昭和の『遠野物語』ともいうべき書。

 

ヤマケイ文庫 定本 黒部の山賊

ヤマケイ文庫 定本 黒部の山賊