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『AX アックス』 伊坂幸太郎

 

AX アックス (角川文庫)

AX アックス (角川文庫)

 

 

おすすめ度: ★★★  (3つ星が最高点)

 

 恐妻家にして一人息子のよき父である、凄腕の殺し屋が活躍する短編集。主人公の表の顔は文具メーカーの営業社員・三宅であり、殺しの世界では兜と呼ばれる。

 主人公は不遇な少年時代を過ごし、生きるためにやむをえず殺人で生計を立てている。両手両足の指では足りないほどの殺人を執行したベテランの仕事人だが、自分の家族と自分によって殺された者たちの家族を案じ、殺しの世界から足を洗うことを決意する。殺人の仲介者である医師に辞意を伝えたその日から、医師が差し向けた殺し屋から命を狙われ始める。

 5つの短編がそれぞれ独立しながらも、緩やかに連携し、大きな物語として最終話に収斂していく。

 

 主人公の人物造形がいい。業界では一流の殺し屋として恐れられる存在。家庭では、妻との関係を円滑にするための処世術を、ノートにまとめている小心者。息子からは妻に気を遣いすぎると呆れられる始末だ。また、満足な青春期を送ることができず、親しい男友達がいない主人公は、理解しあえる友人を作りたいと切に願っている哀れな中年男でもある。

 

 この小説は、死と隣り合わせの稼業を営む男の特別な物語ではない。主人公ほど切迫した死の不安を意識していないだけで、誰もが生きている以上は死の淵に面している。明日、交通事故に遇うかもしれないし、1週間後、心臓発作で突然死するかもしれないし、1か月後、巨大地震に見舞われるかもしれない。私たちだって、主人公と同じように常に死のリスクにさらされている。したがって、主人公の生きることへの不安は、私たちの不安でもある。

 

 主人公は多くの人を殺め、他人を犠牲にすることでしか、自分たち家族が生きていけないことに強い罪悪感を持っている。私たちもまた他人を傷つけることでしか、生きていけない存在だ。「他人の犠牲」を自覚して生きている分、無自覚な私たちよりも主人公の方が人間社会を理解しているといえるかもしれない。

 

 すべての文章に伏線が張られている、といっても過言ではないほど、高度な計算と技巧にあふれている。にもかかわらず、読者は著者の企みに気が付かない。気が付かないばかりか、軽く読み流してしまう。読み終えた瞬間に、さりげないセリフに込められた重要さにようやく気が付き、心地よい「やられた」感とじわじわした感動を覚える。

 

 死への不安という暗いテーマを扱いながら、ユーモアあふれる軽妙な文体により重苦しさを回避している。伊坂マジックと呼ぶべき高品質なスタイルは、うなるほどうまい。

 手に汗握るスリリングな犯罪小説であり、予想不可能な娯楽小説であり、愛に満ちた家族小説。